アウシュビッツで中谷さんのお話を聞きに行ってきました Part2
今回は前回の続きでアウシュビッツについてです
前回↓
まだ前回で門と建物一個分しか話せてない、、、
長くなりそうですけど忘れないうちに書き留めておきたいものです😅
第5棟
前回第4棟まで書きました
その後向かったのはお隣の第5棟です
ここには被収容者が持ってきた財産の一部があります
収容されるときに奪われて、分別し、使えるものは使っていました
大量のメガネです、本当に大量
目が悪い人は奪われて大変だっただろうに、、、
これはタリートというユダヤのお祈りのショールだそうです
これをとられたということは宗教の自由もないっていうことですね
被収容者はユダヤ人(とドイツに決められた人)だけではありません
彼らに共通するこというのはホロコーストが起きる前から差別されていたということでしょうか
例えばユダヤ人がヨーロッパに来た時、身分が下の仕事、その当時では商人、をしていました
そのせいで株の大暴落もユダヤ人のせいにされたんだとか
個人的なことですが前にシンティ・ロマについてのレポートを書いたので、中谷さんが彼らについて話すたびに敏感に反応してしまいます😅
おそらく彼らについて知っている人は少ないと思うのでざっくり話すとインドからヨーロッパ全域に流れていった移動型民族です、昔から物乞い、盗人をしている貧乏な人たち、というイメージがあります
シンティ・ロマはその移動型民族の中の一部分で、全体的にはジプシーと呼ばれます
馴染みのない人から見ればそういう感じがしませんが、この言葉自体に差別が入っているんです
日本では放送禁止用語だそうです、だから普段聞かないんですよね
って考えたらユダヤ人よりもっと下の身分なんです
被収容者の中には脱走をした人が何人かいましたが、多くの人数で団結して親衛隊(監視している人たち)を殺そうとか、協力して逃げようということはあまりありませんでした
その理由は被収容者間の格差です
彼らは服に番号と三角のマークを付けていました
そのマークの色でなんで収容されているかがわかります
赤だと政治犯、ピンクだと同性愛者という風にです
これにより、団結のしにくさを生み出しました
被収容者の中にもヒエラルキーのようなものが存在します
一番上はユダヤ人です
被収容者の中で一番人数が多く、権力を持っています
そしてシンティー・ロマは下の方です
少し前に話題になった(?)のがベルリンにある記念碑についてです
1988年、ベルリンに大きな記念碑を作る時に大きな争点となったのが「誰のためなのか」という問題でした
ナチ被害者全体なのか、ユダヤ人だけのものなのか
記念碑を設置しようと言い始めた人々が出した結論は、ジプシーのための記念碑は別で、別の場所で、作るということでした
ユダヤ人は同じ場所にジプシーのモニュメントを置くことにすら抵抗があったのです
そのあとすぐジプシーのための記念碑を作るのに取り掛かったんですが、できたのは2012年です
受け入れるのにそれほど時間がかかっているんです
LGBT、障がい者は現在受け入れられつつあるのに、と考えると収容所内でもシンティー・ロマの人々はユダヤ人からも下に見られていたんじゃないかと思います
さて話を第5棟の展示物に戻します
これは日用品の鍋、お皿、コップなどです
これらはいらないとみなされたので今も残っているのですが、被収容者がこれらを持ってきた理由として、子供に普段から使っているものを側に置かせて安心させるため、ということだそうです
没収させられたので彼らが使うことはできなかったと思いますが、親として子供のためになんとかさせなくては、という強い思いを感じます
第6棟
ここには被収容者の生活が描かれています
これは被収容者が1日に食べていたものです
1300キロカロリーです
正直これを均等に全ての人が食べることができると、飢えで亡くなることはなかったんです
しかしご飯を親衛隊が、彼らの監視役(まとめ役)に一括にあげていたため実際は差がありました
これは被収容者が自分の生活風景を描いた絵です
左上の他の人より太った人、実は彼も被収容者なんです
彼が監視役であり、他の人の分の食料も奪っていました
前回でもお話ししたのですが、生き残った被収容者は中では地位が高かったのです
その分他の人と競争して生き残っている訳ですから、あまり話すことができないのです
なのでこの絵を描いた人はこのことを表しただけでもすごいと中谷さんはおっしゃっていました
この絵は収容所から仕事に行く時の行進の絵です
この時親衛隊は何も理由もなく殴ったりすることがあったそうです
それを逃れるために列の中に入るのに毎回競争になったとか、、、
子供についての展示もありました
ジプシーの子供たちは、放射線を浴びさせられ、子供ができないようにさせたそうです
醜い血族をなくすため、ということでした
しかし同じようなことを日本も行っていました
最近裁判になってニュースにも流れていましたが、障がい者が子供を生まないようにさせました
日本は戦後にしていたので、ドイツに影響されたのではないかと
日本はあくまでも彼らの負担が減るようにという理由でしたが、ドイツが同じことを悪い理由で行っていた後、ということを考えると、実は日本も同じような理由なのではないか、、、ということです、恐ろしい
第11棟
ここは監獄として使われていました
アウシュビッツ、初期にはソ連軍や政治犯が捕まって暮らしていました
彼ら、特に先生や神父さんは情報を得るために捕らえているので、ここに連れて行き拷問をさせて話させたりするなどの行為を行っていました
撮影禁止だったので写真はお見せできませんが、例えば、立ちろう、というところは、狭い部屋に4人が収容され、座ることができないスペースに入れられ何日も閉じ込めました
また、ここには日本にゆかりのある神父、マキシマリアン・コルベさんが入っていた監獄があります
彼は日本に来てキリスト教を広めた方です
彼はポーランドに戦争が起きた時戻りました、そこで収容所送りとされました
アウシュビッツにいる時に、一人の人が脱走し、その代わりに10人を殺すという出来事が起きました
その時一人の人が、助けて、と言ったそうです
マキシマリアン・コルベさんがなんとその時に名乗り出て、身代わりになったのです
代わりに助けてもらった人は生き延びることができ、お礼として神父の番号の書かれた記念碑が建物に貼ったそうです
彼が入っていた監獄には三本のロウソクがあり、ローマ法王が来られた際につけるそうです
所長の家
収容所から300メートルほど離れたところに収容所の所長の家があります
真ん中の木の奥にあるお家です
収容所の中からも見える距離にあります
そこには家族で住んでおり、子供もいました
私が行く前に見た映画、「縞模様のパジャマの少年」の主人公の男の子はここの所長の子供がモデルだと言われています
本当にこの距離だと中の人と話すことができそうです
その近くには死の壁というものがあります
ここで主に遺族が花をお供えすることが多いそうです
上にはユダヤ人の旗が、アウシュビッツで着ていた服と同じ縞模様です
ヨーロッパには様々な民族が住んでいます
オーストリアが小さな国になった時に他の民族はポーランドなどに住み新しい国を作っていったそうです
グローバル化と言われている今日、ヨーロッパの人々はここに来て他民族との共存社会について考えるそうです
法律などの制度も必要ですが、自分に他の民族を受け入れる心が必要であるということを知るために多くの学生が訪れます
では日本はどうするのでしょうか
日本でも労働不足の問題から外国人労働者を緩和する法律ができました
しかし日本人は受け入れる体制を持っているのでしょうか
無意識に悪く扱ってしまうかもしれません
それの最悪なケースがアウシュビッツなのです
ユダヤ人は住んでいるところに馴染むために自分がユダヤ人だとバレないように名前を変えた人が多かったそうです、さらには宗教を変えてその場の人々と同化しました
日本でも、今は減ったと思いますが在日韓国人が同じことをしています
名前が韓国の名前であるというだけで就職できなくなっていたこともあったそうです
このような状態だと、日本はいつまでも受け入れる姿勢が整いません
日本はヨーロッパについて差別はしていないけどある程度差をつけてしまっているのではないかという話もされていました
例えば歴史についてです
私たちが世界史を学ぶ時、ヨーロッパといってもほとんどがイギリスなどの大国、西欧になりがちなのです
ポーランド自体国である時期が少なく、日本とポーランドの国交が今年で100年になったばかりなほどです
ポーランドについて私はほとんど知りません
このように西欧中心主義になってしまっている日本の世界史の教え方は、今後グローバルに社会が動いていく中でよくないことだと私は思います
特にヨーロッパに来てから世界史をもっと知っておけば、、、と思う時が多いです
さてここで第一収容所のお話は終わりです
次は第二収容所、ビルケナウ収容所について書こうと思います
ではまた👋