オルチャタ(Horchata)とファルトン(Farton) in バレンシア
こんにちは!
バレンシアでは今週末からLas Fallas という大きなお祭りが始まるのでとても盛り上がっています😆😆
さて今回は、バレンシアで夏になるに向けてみんなが飲み始めるドリンク、オルチャタ(Horchata)を紹介します
オルチャタとは、見た目は豆乳みたいなものですが、チュファ(chufa)という日本には無い種類のナッツのようなものが出来る草の地下茎の汁が基になっている飲み物です
それに砂糖をたくさん入れるので全体的には甘い味です
私が今回食べに行ったのはHorchateria Daniel というところ
友達がここが一番美味しいところだと言っていました!
みんながオルチャタと一緒によく食べるのはファルトンという甘いお菓子のようなパンのようなもの🥖
これをオルチャタに浸して食べるそうです
個人的な感想としては、、、😑😑😑
本当に説明しずらい不思議な味でした
強いて言うならおもち、でも堅い時?の匂いがします
ファルトンに浸して食べるとまだいけます笑
結果的に一番小さいサイズを選んで良かったです
これは現地の友達曰く最初は変な味がするけど、何回か飲むと逆に夏になると飲まないとと思うようになる、とのこと
理解ができません😇
しかしファルトンもオルチャタもとても安く、説明しずらい味がするので、試してみる価値はあります!
ほとんどのカフェにありますが、道でもたまに見かけます
ナチュラルって書いてあるから健康にいいのを使ってるみたいです
現地の人は結構飲んでいるしやはり人気があるんですね
スーパーにも売っていました!!
もしかしたら私が苦手なだけかもしれない😅
もしバレンシアっぽいスイーツを探しているのであれば是非試してみてください!
ではまた👋
オレンジの街 バレンシア
こんにちは!
今回はバレンシアの街のシンボルであるオレンジについて紹介したいと思います🍊
オレンジの木
バレンシアの街にはオレンジの木がいたるところにあります
全体的には南国系の木が道路の方にあり、旧市街の方に行くとオレンジだらけになります
これは街の中心地に行くまでの木、リゾート地って感じです
これは旧市街の中にある観光地、ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(Llotja de la Seda)の中庭にあったオレンジの木です
このように歴史的な建物の中にもオレンジの木はあります
また街の中心の駅であるノード駅(Valencia Nord)の建物をよく見るとオレンジの木の模様がたくさん描かれています
古い建物なので昔からオレンジが有名だったんだと思われます
ただ日本でもよく見るバレンシアオレンジという品種はアメリカでできたもので、全く関係ないそうです😅
ここのスーパーで大量に売っているのを見てもオレンジ(Naranja)としか書いてないからどこの品種かはわかりません笑
でも安いので大量に取れているんだと思います
さてこのバレンシア中にあるオレンジ、食べることはできません
というのもデコレーション用として品種改良されたものだからです
美味しくないし体にも悪いそうです
現地の友達が、観光客が木から頑張って取って、すごい喜んでいるのを目撃して可哀想だったっと言ってたのでかなりまずいんだと思います笑
くれぐれも無料だ!っと思って取らないようにしましょう😇
絞りたてオレンジジュース
先ほども述べたようにオレンジはスーパーに大量に売っています
そしてどこにでもあるのがオレンジジュース製造マシーンです
ジュースが出てくるところのボタンを押すと機械も動いてオレンジが潰されてジュースとなります
すごい新鮮、本当にしぼりたて!!!!!!!
気になるお値段ですが、一リットル350円ほど
そこらへんでコーヒー飲むのよりよっぽど安いです😂
この前は小さい子供がたかってみんなで買ってました
みんなオレンジが好きなんです❤️
実際に作ってみると結構な量のオレンジが潰されていました
多分7、8個ぐらい?もっとかも
普通に紙パックで100%のも売っていますがせっかくならしぼりたてがいいですよね
小さいサイズのもあるのでもし訪れた時は試してみてください!
ではまた👋
バレンシアでスペイン語短期留学
こんにちは!
私は現在スペインのバレンシアに来ています🇪🇸
スペイン語の語学学校に通いながら勉強と、観光と、美味しいご飯を食べるのに励んでいます!!
スウェーデンの留学とはまた違った体験ができるのでとても面白いです!😆
なぜバレンシアにしたのか
(街の風景)
ずばり安いからです💸
といっても私はあまり調べていなくて、ネットで「安い スペイン 留学」って調べたら出てきたのがバレンシアっていう感じです
スウェーデンからも近くて飛行機で4時間ほどで価格もお手頃でした
私は元々スペイン語にも興味があり、今後の人生でスペイン語をもっと勉強したいのかどうか考えたくてきました
期間は1ヶ月
それで人生を決めるとまではいかないけど、長期留学が終わる6月から何をするべきかをこの留学で決めたいと考えています
具体的にいうと次の夏休みにさらにスペイン語を勉強するか否かって言う感じです
またスペイン語をするとしてもスペインではなくメキシコなどの中南米と関わった仕事に就きたい(関わっている企業が多い)と思っているので次留学するならばそっち方面ですが、とりあえずここで少しでも伸ばせたらなと考えています
ちなみにスペイン語は大学生になってから始めたので1年ちょっと学んで、昨年の春休みに1ヶ月メキシコに留学していましたがお遊び程度、特にスピーキングがダメダメです😇
レベルとしてはA2だと思います
また個人的に春休みの時期の割には日本人が少ないのもいいことだと思います
私は日本人ともスペイン語で話す時がありますが日本人で固まりすぎるのも嫌なので😅
学校
私が今行っているのはHispaniaという言語学校です、ここは安くて質がいいとの評判です
ただ中国人がすごく多いのと、(友達のクラスは中国人が2/3)寮が高いのは難点といった感じです
中国人が悪いわけではないけど、少し聞き取りにくいのと、学校で強制的に来ているのかやる気のない生徒が多々いるので授業の邪魔になるかもしれません
私のクラスは中国人も少ないし、いい人たちだし、他の人もみんないい人で楽しいです
だいたい10人ぐらいで1クラスです
また年齢が結構バラバラです、おばあさんぐらいの人もいます
授業は主にプリントで下のクラスだと文法をきっちりホワイトボードに書いてくれます
それをみんなでノートにとる感じ
また会話中に出てきた単語は書いてくれるのでそれを授業が終わった後にまとめて覚えるようにしています、それが実際の会話で使えるようにできたらいいな🥰
上のクラスだとディスカッションになるみたいです
欠点としてはなんの勉強をするのかわからないから予習ができないことでしょうか
でもその分復習をすればなんとかなります
クラスは事前のテストで分けますが自己申告ですぐに上がれたり下がることができます
なので綺麗にはわかれていません
私は文法は全然大丈夫だけど単語とスピーキングが無理なのでそのまま留まっています
寮は学校を通して学生寮みたいなのを頼めますがかなり割高です(来て気づいた😇)
あと冷暖房付いていないところに住んでいますが、かなり寒いです😨(3月)
私みたいな1ヶ月の人はこれでいいけど、長期の人は最初だけそこでそのあと自分で探す、の人が多いです
あとホームステイも紹介してくれます
高いらしいですが朝と夜が付きます
1日の流れ
朝は9:20から授業なのでそれに合わせて行きます
学校の寮で頼むと大体歩いて行くことができます🚶♀️
11:15に一限目が終わり、15分の休憩です
私はこの時外に行って友達と話すようにしています
まだここに来て1週間ですが、この時間に外に出たおかげで友達がまあまあ出来ました
友達は家から持ってきたサンドウィッチ食べたり、コーヒー・軽食を買ったりしています
私は太陽にあたりに外に出ています🌞
微妙に寒いです3月は
暑いと思って夏服っぽいのしか持ってきていないので失敗、クラクフじゃないけど服の失敗は多い😂
二限目は11:30から1:25まで
そのあとは帰ったりお昼食べに行ったり(安い!)遊びに行ったりしています
私はハロートークというアプリを通して出会ったスペイン人と遊んだり、Intercambio という言語交換会のようなイベントに行ったりしています
メキシコに行った時より全然スペイン語を話す機会が多くて感動です、やっぱり一人で行くもんですね笑
(メキシコは学校のプログラムで行きました)
バレンシアは夜遅くでも飲んでる人も多く、街で歩いている人も多いので、そういう意味では安全です
アクティビティ
語学学校ではあるあるのアクティビティももちろんあります
ほぼ毎日ありますが有料のがほとんどです
でもそんなに高くないので行けるのなら行ったほうがいいと思います
友達もできますしね😉
土曜日は少し遠出をして違う街に行けるのでそれも楽しいと思います
長期滞在じゃないと絶対行かないだろうなっていうところに行くのがすごい好きなので笑
私は明日が初めてのアクティビティ参加なので楽しみにしています!
時期
来る時期はいつがいいのかは分かりませんが、3月には「Fallas」という大きいお祭りがあり私はそれをみたくて来たというのも理由の1つです
聞いた話によると夏休みはヨーロッパ人が多くて、それ以外は中国人だらけじゃないかと😇
何故か一人も韓国人がいません笑
でも全体的に学校ではスペイン語を話すので、時期は気にせずに自分の行きたい時期に行けばいいと思います
バレンシアはリゾート地なので夏がいいかもしれませんね
今はまだ泳ぐことはできませんがビーチで日向ぼっこをしている人は多いです🏖
今んところこんな感じで留学生活を送っています
行く前は色々不安あったけど、来たら結構吹っ切れました
とはいえ普通に自分の能力不足を感じています
もっと勉強して話せるようになりたいです😎
これからは少しバレンシアについて書くことができたらなと思っています🍊
ではまた👋
脂の木曜日🍩揚げドーナツ in ポーランド
こんにちは☺︎
クラクフのメインだったアウシュビッツ編を書き終わってほっこりです
でも今回の旅、アウシュビッツにいたのは午前中だけで、午後からは観光もしたし次の日はヴィエリチカ岩塩坑にも行ったし盛りだくさんだったんです
岩塩坑についてはまた時間があったら書きたいと思ってるんですけど、それよりも私の中で旅の中心となる食について今回は話したいと思います!🍙
ポーランド料理は本当に美味しいんです🥰
どこかのサイトで日本人に合う味って書いてあったけど、ポーランド人と舌の感覚が似てるのかなってぐらい美味しい好き
実は前にワルシャワに行ったのでメイン?であるピエロギととんかつみたいなのは食べたんですよね、それで今回はどうしようと思ってたけどまだまだありました笑
といいながら私が今回紹介するのはスイーツ、揚げドーナツです🍩
ポーランド語でポンチキといいます
クラクフのスーパーもちょっとおしゃれなパン屋さんもどこにでも売ってるし、揚げドーナツ専門店もちらほら、、、
中にローズ風のジャムが入っているのが特長です
ワルシャワの時は全然気づかなかったけど本当にどこにでも売ってるし安い!!
脂の木曜日
実はこのポンチキをみんなが食べる日が1年に一回あります
脂の木曜日、と呼ばれる日です
ポーランドはほとんどの人がキリスト教カトリック協会で、宗教を大事にしてる方です
そんなカトリック協会では四旬節の初日の、灰の水曜日と呼ばれる日から復活祭までは断食をします
断食といってもお菓子、お酒など好きなものを食べない、飲まないと言う感じだそうです
そしてその前の週の木曜日が脂の木曜日と呼ばれ、ポーランドではポンチキをみんなが食べるそうです
2019年は2月28日でした
(スーパーで売ってた脂の木曜日と書かれたポンチキの箱)
私がクラクフに来たのが25日で、27日にそのことを知りました
当日はすごい並ぶということで前日に私も買いに行ってみることに、、、
ポンチキ専門店
先ほども述べましたが、ポンチキはどこでも売っています
でもやっぱり美味しいのはポンチキ専門店です
クラクフに住んでいる友達に教えて貰ったポンチキ専門店へ、、、
Paczki Tradycyjna Receptura っていうところです、夏にはアイスクリーム屋さんになるとか
行ってみるとそこには長蛇の列が😇😇😇
ひえええって思ったけど逆にこの行列だとどんな味か気になり待ちました笑
意外と寒い日だったしまあまあしんどかったけどお店から出てくる人見たらみんなパック買いで10、20個は買っててそんなん見たら一個だけ買うのはもったいないとか話しながら、、、笑
結局待つこと1時間20分
ついに自分たちの番が!!!
最後の最後で4つ買うってなって(現金で買える最大の量)
4をポーランド語でチュテレって言うんだよって教えてもらって
メニューは幸いにも一種類しかないからそれだけ言ったら買えるいい機会で、試すことができました
そしてついにゲット!!!!
その場では食べるところはないので近くの川辺のベンチで食べることに
揚げたてほかほか☺️
普段は作り置きしてることが多くて、朝しかできたての食べれないけど今回はこの行列だからもちろん作り置きする暇なんかなくて、いつでも揚げたてが食べることができるという特典がありました😋
すごい美味しかったです!!
柔らかくて、でも表面はサクッとしてて、すごい甘いわけじゃないからぺろっといけちゃいます
ただ私はこのローズのジャムが苦手でした😅
芳香剤の匂いをイメージさせてしまうからなんでしょうか笑
友達はクリームが入ってるの食べたことあるらしく、別の味も売っているみたいです
それでも最初は王道がいいよね
脂の木曜日当日
次の日に街を歩いてたらいたるところにポンチキと書かれたものが
そして駅の近くにある有名なポンチキ屋さん(Stara Paczkarnia)では朝9時の時点で昨日を超える列が
これは一時間以上かかりそう
本当前日に行っておいてよかったです笑
ということで少し面白い体験ができて美味しいのが食べることができた日でした
ではまた👋
アウシュビッツで中谷さんのお話を聞きに行ってきました Part3
もうアウシュビッツに行ってから一週間と少しが経ちました
でも行ったのが結構前のような気がしています笑
今回はアウシュビッツ収容所の後に行ったビルケナウ収容所について書こうと思います
前回
ビルケナウ収容所はアウシュビッツから3キロ離れたところにある収容所です
最初はソ連軍捕虜収容所として計画されたのですが、最終的にはナチス・ドイツ最大の強制収容所となりました
進入門
この門もアウシュビッツの写真としてよく使われるものだと思います
鉄道の終着点でもあります
ここは今では使われていませんが、この線路の先には今でも使われている鉄道につながっています
この箱のようなもので実際に50万人以上のユダヤ人がここまで運ばれました
この一つの貨車に70人ほどがブダペストから連れてこられました
呼吸が困難な状態で、運ばれている途中で亡くなる方もいました
着くとすぐに労働ができるかどうかの「選別」が行なわれました
この選別、顔を見てパッと決めるんですよね、一瞬で決まります
シンドラーのリストでは女性が自分の血を顔につけて血色をよくし、健康そうに見えるように工夫していました
これはその時に撮られた写真です
撮ることはもちろん規則違反です
これらは幹部の親衛隊がこっそり撮り、しかし撤退する時に忘れたものをたまたま見つけた生き残った人が形見として持って帰ったものです
こうした奇跡の連続によって私たちはこの写真を見ることができるのです
前回でユダヤ人自身もこの出来事を好んで話さなかった時期があったと述べましたが、もちろんその当時ドイツの教科書には載っていませんでした
しかし現在では大学の入試ではこれしか出題されないほどになっています
そのために訪れる高校生もたくさんいます
このように収容所について教育をしている姿勢を他国に見せると、あまり周りが文句を言えなくなってしまいます
また、古くなってきている建物の、修復費、これもドイツが一番多く払っています
しなかったら怒られそうですけどね笑してるから何も言われないみたいです
ドイツからしても何かにつけてこの問題を突きつけらfれたら困りますしね
犠牲者追悼碑
この線路の先に、23か国語で書かれた犠牲者追悼碑があります
主に収容所にいた人が話していた言語です
ロマは自身の言語はありますが、文字はありません
言葉だけで祖先に伝承しています
なぜなら文字は焼かれたりしてなくなる可能性があるからだそうです
日本のアイヌとロマは似ていると中谷さんはおっしゃっていました
共通点は、住んでいるところの大多数と言語が異なり、それにより貧困になったということです
北海道にあるアイヌ民族博物館にはポーランド人の銅像が置かれています
ブロニスワフ・ピウスツキさんというアイヌ研究家の方です
中に飾られている写真もほとんどが彼が撮ったものだそうです
彼は蓄音機をアイヌに持って行き録音に成功しています
それが今でも聞けるそうです、とても貴重なものとなっています
このようなところにポーランドと日本(アイヌ)との関係があったとは知らず、とても驚きました
収容所
ここでは収容所の一部が公開されて、彼らの生活を覗くことができます
彼らが寝ていたところです
3段だったかな
下の方だととても寒いそうです
51人用のベッドに400人以上が寝ていました
これは収容されていた当時の人が描いた絵です
解放された後も誰も名乗り出なかったことからなくなった人が書いたとされています
子供の帽子がキッパであることから、彼らがユダヤ人だということがわかります
大きな部屋に対して、この小さな暖房です
死なれたら仕事できなくなって困るから、一応つけてはいたみたいです
冬には-20度ほどになっていたとか
またここは現在でも寒く、風が強いです
この暖炉の監視役もみんながしたかった仕事の一つです
これをするためにはまとめ役の人に好かれるようにしなければいけません
そのために他の人をたたいたり殴ったりとかしていたみたいです
弱肉強食の世界って感じです
これは手を洗うところです
石鹸置き場がありますがもちろん本物は置かれていませんでした
毎晩石鹸で洗うことができたのは厨房で働いていた人のみです
そしてもちろんこれも人気の仕事ですから、好かれる必要がありました
これはトイレをするところです
彼らは1日に仕事に行く前と後の二回のみすることができました
伝染病を防ぐためにトイレと手を洗うところは別れていました
トイレとはいえ本当に穴が空いている程度のものです
前回も述べましたが、伝染病、特にチフスを治すために使われていた殺虫剤が、のちに彼らを殺すための毒薬として使われるようになったのです
以上でガイドは終わりました
最後に中谷さんはアウシュビッツ収容所ービルケナウ博物館のポリシーについてお話しされました
今現在でも様々な問題が起きて、平和でない状態が続いているところが多くあります
それは無くなるのが理想ですが、残念ながらなくすことは難しいのが現実です
でもその理想を持たない限り、いい方向へは行かないということは確かなのです
無くならないからといって、理想を持たないというのは違うのです
その信念のもとにこの収容所をたくさんの人に見せて、このようなことが起きないようにするべきという心を持ってもらうのがここの目的です
毎年来場者は増えていて、LCCのおかげで安くくることもできるようになりました
若い人も多く来ます
皆さんももし機会があれば是非行ってみてください
本当に行くべき場所だと思います
私もこの貴重な経験を忘れたくないのでブログに書きました
そして今後ブダペスト、アムステルダム、ベルリンに行く予定があるので関連した場所に行けたらいいなと思っています
ではまた👋
アウシュビッツで中谷さんのお話を聞きに行ってきました Part2
今回は前回の続きでアウシュビッツについてです
前回↓
まだ前回で門と建物一個分しか話せてない、、、
長くなりそうですけど忘れないうちに書き留めておきたいものです😅
第5棟
前回第4棟まで書きました
その後向かったのはお隣の第5棟です
ここには被収容者が持ってきた財産の一部があります
収容されるときに奪われて、分別し、使えるものは使っていました
大量のメガネです、本当に大量
目が悪い人は奪われて大変だっただろうに、、、
これはタリートというユダヤのお祈りのショールだそうです
これをとられたということは宗教の自由もないっていうことですね
被収容者はユダヤ人(とドイツに決められた人)だけではありません
彼らに共通するこというのはホロコーストが起きる前から差別されていたということでしょうか
例えばユダヤ人がヨーロッパに来た時、身分が下の仕事、その当時では商人、をしていました
そのせいで株の大暴落もユダヤ人のせいにされたんだとか
個人的なことですが前にシンティ・ロマについてのレポートを書いたので、中谷さんが彼らについて話すたびに敏感に反応してしまいます😅
おそらく彼らについて知っている人は少ないと思うのでざっくり話すとインドからヨーロッパ全域に流れていった移動型民族です、昔から物乞い、盗人をしている貧乏な人たち、というイメージがあります
シンティ・ロマはその移動型民族の中の一部分で、全体的にはジプシーと呼ばれます
馴染みのない人から見ればそういう感じがしませんが、この言葉自体に差別が入っているんです
日本では放送禁止用語だそうです、だから普段聞かないんですよね
って考えたらユダヤ人よりもっと下の身分なんです
被収容者の中には脱走をした人が何人かいましたが、多くの人数で団結して親衛隊(監視している人たち)を殺そうとか、協力して逃げようということはあまりありませんでした
その理由は被収容者間の格差です
彼らは服に番号と三角のマークを付けていました
そのマークの色でなんで収容されているかがわかります
赤だと政治犯、ピンクだと同性愛者という風にです
これにより、団結のしにくさを生み出しました
被収容者の中にもヒエラルキーのようなものが存在します
一番上はユダヤ人です
被収容者の中で一番人数が多く、権力を持っています
そしてシンティー・ロマは下の方です
少し前に話題になった(?)のがベルリンにある記念碑についてです
1988年、ベルリンに大きな記念碑を作る時に大きな争点となったのが「誰のためなのか」という問題でした
ナチ被害者全体なのか、ユダヤ人だけのものなのか
記念碑を設置しようと言い始めた人々が出した結論は、ジプシーのための記念碑は別で、別の場所で、作るということでした
ユダヤ人は同じ場所にジプシーのモニュメントを置くことにすら抵抗があったのです
そのあとすぐジプシーのための記念碑を作るのに取り掛かったんですが、できたのは2012年です
受け入れるのにそれほど時間がかかっているんです
LGBT、障がい者は現在受け入れられつつあるのに、と考えると収容所内でもシンティー・ロマの人々はユダヤ人からも下に見られていたんじゃないかと思います
さて話を第5棟の展示物に戻します
これは日用品の鍋、お皿、コップなどです
これらはいらないとみなされたので今も残っているのですが、被収容者がこれらを持ってきた理由として、子供に普段から使っているものを側に置かせて安心させるため、ということだそうです
没収させられたので彼らが使うことはできなかったと思いますが、親として子供のためになんとかさせなくては、という強い思いを感じます
第6棟
ここには被収容者の生活が描かれています
これは被収容者が1日に食べていたものです
1300キロカロリーです
正直これを均等に全ての人が食べることができると、飢えで亡くなることはなかったんです
しかしご飯を親衛隊が、彼らの監視役(まとめ役)に一括にあげていたため実際は差がありました
これは被収容者が自分の生活風景を描いた絵です
左上の他の人より太った人、実は彼も被収容者なんです
彼が監視役であり、他の人の分の食料も奪っていました
前回でもお話ししたのですが、生き残った被収容者は中では地位が高かったのです
その分他の人と競争して生き残っている訳ですから、あまり話すことができないのです
なのでこの絵を描いた人はこのことを表しただけでもすごいと中谷さんはおっしゃっていました
この絵は収容所から仕事に行く時の行進の絵です
この時親衛隊は何も理由もなく殴ったりすることがあったそうです
それを逃れるために列の中に入るのに毎回競争になったとか、、、
子供についての展示もありました
ジプシーの子供たちは、放射線を浴びさせられ、子供ができないようにさせたそうです
醜い血族をなくすため、ということでした
しかし同じようなことを日本も行っていました
最近裁判になってニュースにも流れていましたが、障がい者が子供を生まないようにさせました
日本は戦後にしていたので、ドイツに影響されたのではないかと
日本はあくまでも彼らの負担が減るようにという理由でしたが、ドイツが同じことを悪い理由で行っていた後、ということを考えると、実は日本も同じような理由なのではないか、、、ということです、恐ろしい
第11棟
ここは監獄として使われていました
アウシュビッツ、初期にはソ連軍や政治犯が捕まって暮らしていました
彼ら、特に先生や神父さんは情報を得るために捕らえているので、ここに連れて行き拷問をさせて話させたりするなどの行為を行っていました
撮影禁止だったので写真はお見せできませんが、例えば、立ちろう、というところは、狭い部屋に4人が収容され、座ることができないスペースに入れられ何日も閉じ込めました
また、ここには日本にゆかりのある神父、マキシマリアン・コルベさんが入っていた監獄があります
彼は日本に来てキリスト教を広めた方です
彼はポーランドに戦争が起きた時戻りました、そこで収容所送りとされました
アウシュビッツにいる時に、一人の人が脱走し、その代わりに10人を殺すという出来事が起きました
その時一人の人が、助けて、と言ったそうです
マキシマリアン・コルベさんがなんとその時に名乗り出て、身代わりになったのです
代わりに助けてもらった人は生き延びることができ、お礼として神父の番号の書かれた記念碑が建物に貼ったそうです
彼が入っていた監獄には三本のロウソクがあり、ローマ法王が来られた際につけるそうです
所長の家
収容所から300メートルほど離れたところに収容所の所長の家があります
真ん中の木の奥にあるお家です
収容所の中からも見える距離にあります
そこには家族で住んでおり、子供もいました
私が行く前に見た映画、「縞模様のパジャマの少年」の主人公の男の子はここの所長の子供がモデルだと言われています
本当にこの距離だと中の人と話すことができそうです
その近くには死の壁というものがあります
ここで主に遺族が花をお供えすることが多いそうです
上にはユダヤ人の旗が、アウシュビッツで着ていた服と同じ縞模様です
ヨーロッパには様々な民族が住んでいます
オーストリアが小さな国になった時に他の民族はポーランドなどに住み新しい国を作っていったそうです
グローバル化と言われている今日、ヨーロッパの人々はここに来て他民族との共存社会について考えるそうです
法律などの制度も必要ですが、自分に他の民族を受け入れる心が必要であるということを知るために多くの学生が訪れます
では日本はどうするのでしょうか
日本でも労働不足の問題から外国人労働者を緩和する法律ができました
しかし日本人は受け入れる体制を持っているのでしょうか
無意識に悪く扱ってしまうかもしれません
それの最悪なケースがアウシュビッツなのです
ユダヤ人は住んでいるところに馴染むために自分がユダヤ人だとバレないように名前を変えた人が多かったそうです、さらには宗教を変えてその場の人々と同化しました
日本でも、今は減ったと思いますが在日韓国人が同じことをしています
名前が韓国の名前であるというだけで就職できなくなっていたこともあったそうです
このような状態だと、日本はいつまでも受け入れる姿勢が整いません
日本はヨーロッパについて差別はしていないけどある程度差をつけてしまっているのではないかという話もされていました
例えば歴史についてです
私たちが世界史を学ぶ時、ヨーロッパといってもほとんどがイギリスなどの大国、西欧になりがちなのです
ポーランド自体国である時期が少なく、日本とポーランドの国交が今年で100年になったばかりなほどです
ポーランドについて私はほとんど知りません
このように西欧中心主義になってしまっている日本の世界史の教え方は、今後グローバルに社会が動いていく中でよくないことだと私は思います
特にヨーロッパに来てから世界史をもっと知っておけば、、、と思う時が多いです
さてここで第一収容所のお話は終わりです
次は第二収容所、ビルケナウ収容所について書こうと思います
ではまた👋
アウシュビッツで中谷さんのお話を聞きに行ってきました Part1
ついに念願のアウシュビッツに行ってきました!!
中谷さんをインターネット上で知ってから約1ヶ月
色々映画見て、準備も自分なりにして、気持ちも入れて、、
無事に予約も取れて、沢山のお話を聞くことができたのでここに記したいと思います
中谷さんのガイドは時事問題を絡めて、聞くたびに変わってると思うので面白いと思います!
着いて感じだこと
クラクフの中央駅からバスで1時間半ほどで着きます
バス停から日本人だらけでみんな中谷さんのを聞くんだなーと思いながら、人間観察をしながら、笑
私を含めて大学生が多かったです
春休みだからかな
一人旅してる人が多かったです
バックパッカーみたいな
久し振りに多くの日本人に囲まれて違和感😇
よく分からないけど日本帰りたくないって思っちゃった
着いてからびっくりしたのが外国人の高校?生の数
後から中谷さんから聞いたのですが外国人の修学旅行先として人気なんだとか
日本でいう広島、長崎コースですね
でも広島長崎は日本が被害者っていう印象を与えるので、やっぱり違いますね
おそらくアウシュビッツに行く生徒の国は加害者もしくは傍観者の国ですから
また違った印象を与えそうです
アウシュビッツに着いて、寒いと感じました
もちろん事前からいろんな人に寒いから気をつけてね、って言われてたのに
最近のストックホルム天気いいし、ここより下のポーランドはもっと暖かいだろうと判断
いつもより軽めのコートに靴もスニーカー
完全に失敗です😇
この寒さが負の遺産の雰囲気を創っています
昔は冬は-20度になってたとか
なんとなく日本人のところに集まっていると
なんとなく中谷さんが現れて
なとなく始まりました
人数確認もあんまりしてないので時間に遅れたら完全にアウトパターンですね笑
門
中谷さんの声が聞こえるようにヘッドホンとオーディオガイドをつけてスタートです
20人ぐらいで行われました
いきなり有名なところ
この写真文字が途切れてる笑
ARBEIT MACHT FREI
ドイツ語で働けば自由になれる
と書かれています
実際はそうならなかったですが、そう言い聞かせるためのもののような
収容所は被収容者が毎日過ごしていたところではありません
主に寝るのがメインです
近くにあった工場に働きに行っている人がたくさんいました
いろいろな企業、大企業も含め、彼らを雇い工場を経営していました
シンドラーもその一人ですね
彼は違いますが、企業は現在でも強制労働を認めていません
なぜなら賃金を払っていたからです
しかしそれがきちんと彼らの元にたどり着いていたのかは定かではありませんし、おそらくないと思われます
彼らはこの門を毎日朝早く出て、夜遅く帰るのを繰り返していました
しかし占領していたのはドイツ人なので当然ここではドイツ語が話されます
門もドイツ語で書かれていますし、そもそもアウシュビッツもドイツ語での地名の言い方です
ドイツ人にとって言いにくかったのでアウシュビッツに変えたそうです
この門の中では大量虐殺、ホロコーストが行われ約110万人が亡くなっています
ホロコーストという言葉はもともと生贄という意味でした
しかしアメリカのテレビ局がアウシュビッツでの出来事を特集した際に題名をホロコーストとしたことから、アウシュビッツでの出来事をホロコーストというようになりました
何のための生贄なんでしょうね、、、
ここで働いていた人は主に15歳以上です
なぜなら当時15歳からは大人とみなされていたからです
アンネの日記で有名なアンネ・フランクも15歳でしたので働いていました
では15歳以下はどうなるのか
彼らは働けないとみなされ、着いてすぐにガス室送りとされました
ドイツ人はユダヤ人を「人種」つまり血族の関係で祖先にもつながるもの、とみなしていたので家族単位でアウシュビッツに送られることが多かったそうです
つまり目の前で親と子が引き離されるということです
想像したくないぐらい恐ろしいです
ちなみに女性と男性でも別れていました、収容所の中でも家族は離れ離れです
ではガス室とはどのようなものなのか
この建物は今はもうありません
ソ連が来る前に証拠がなくなるように燃やし壊しました
今残っているのは当時途中で使われなくなって、医療関係の倉庫となったものです
燃やされた時には煙突から煙が出るそうです
天井の二つの穴からツィクロンBという殺虫剤が撒かれてなくなります
一缶で150人ほどを殺すことができる毒です
その後焼却炉で燃やされ運ばれます
1日に数千人が亡くなたとされています
そのための人の誘導、燃やすのも同じ被収容者です
彼らは生きるのと引き換えに自分と同じ立場の人たちを殺すのを加担していました
そのおかげでドイツ人はしなくて済みました
彼らは人々を誘導する際にシャワーに入ると嘘をつかせます
暴れたら困るからだと思います
きちんとその嘘のための脱衣所も用意し、服を脱がせます
そして次の部屋に閉じ込めガスを上から撒きます
計画的な感じがします
嘘でこれから殺される人を安心させるのが嫌になった誘導者がいました
彼はこれから死ぬと本当のことを言ってみたそうです
すると彼は責められました、なんでそうするのかと
彼は嘘をつく方が良いと思い直したそうです
彼はされている側なのに、殺された被収容者にとっては殺した側になってしまいます
実際にアウシュビッツが解放されて20年は生き残った人は口を閉じていたそうです
またここに来ることさえも惨めでできませんでした
なぜなら多くの人が加担する側の仕事をして生き残っていたからです
今ではやっと30%の人が来ることができているそうです
第4棟
門をくぐってまず最初に行ったのは第4棟
アウシュビッツ収容所の幾つかの棟の中は展示室となっています
これはアウシュビッツに収容された人がどこからきたのかを表す地図です
すごい遠くからも来ています、何日かかったやら、、、
ガス室、脱衣所、焼却室の模型です
ほとんど地下で行っていました
この缶は実際にガスとして使われた使用済みのものです
一つで150人、数えられないほどの人を殺しました
ツィクロンBというのは先ほども述べたように元々虫を殺すために作られたものです
これを使うきっかけとなったのは街の人の声からなのです
被収容者がアウシュビッツに来る時に、最初に浴びたものは現地の人々の声でした
出て行け、害虫どもが!
電車で来る時に聞こえてきます
ここから、害虫=被収容者となり、彼らをこれで殺すことになりました
ちょっと信じられないような話です
最初からツィクロンBで殺していたわけではなく、これは被収容者間で発生しやすいチフスを治すために使われていたのです
それがいつの間にか彼ら自身を殺すものとなっていきました
つまり人々の口で発した言葉が始まりとなったのです
それは現代でも言えます、フェイクニュースです
嘘のことを発信し、本当だと信じてしまう人々
それにより様々なところに影響を与えます
この時代でも同じことが起きていたのです
ユダヤ人の定義もその中の一つです
ユダヤ人は本来ユダヤ教を信じる人のことを指し、ムスリム、クリスチャンと同じで、人種、血統的民族のことではありません
ユダヤ人に聞いても人によって定義が異なるほど曖昧なものだそうです
しかしドイツ人がユダヤ人を血統、人種、血を要素とし
ユダヤ教徒でない者でも両親、祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒ならば、ユダヤ人となると述べ、法律として定められました
アンネも自分はユダヤ人ではないと思っていました
ユダヤ教を信じてもいませんでした
しかし母がたがユダヤ教徒だったために収容所送りとされてしまったのです
嘘のことを政治家が発したがために人々がそれを信じ、迫害につながったのです
また、個人的に日本語でユダヤ人と言っているのはよくないと思っています
キリスト人?とは言わないし、ユダヤ人といってしまうと、民族があるかのような、人種のような印象になってしまいます
日本語も難しいですね
二階には被収容者から得た2トンものの髪の毛が展示されています
当時髪の毛を産業用として使うのは珍しくはありませんでしたし、今でもヘアードネーションとしてカツラのために使われたりしています
通常と異なる点はそれを無理やり取られるかどうかという点です
発見された時は、袋の中に大量に入っていたそうです
本来はそれをドイツの企業に送り、織物に変えていたそうです
人々は様々なところから来ていたので髪の毛の色も多様でしたが、今ではほとんど同じ茶色になっています
それでも注目してみると茶色の中でも明るめだったり暗い色のがありました
この棟に置かれている写真は、ある被収容者が自分が殺されるかもしれない危険があるのに関わらず、カメラで写真を撮り歯磨き粉のチューブの中にメモリーを入れて外部に届けたのだそうです
そういった人がいるからこそ私たちが今見ることができるのです
とりあえず、この辺で
続きはまた今度にします